14歳で拒食症になってから

現在28歳.14歳で拒食症になってからの経過を書いています.拒食症で悩む方,御家族の方,友人の方などの少しでも参考になれば...と思います.

授乳中でも痩せ願望

【祝】息子くんは生後3ヶ月半になりました.

 

2週間前に(生後3ヶ月の頃に)引越をして,ここ1ヶ月は慌ただしかったです.

引越し作業が忙しかったためもあってか,息子くんの飲みっぷりがいいためか,体重が減りました.

 

11月半ば(産後2ヶ月半頃)に40kg

12月はじめ(産後3ヶ月頃)に37kg

12月ちょい(産後3ヶ月ちょい)に40kg(身体測定で158.8cmでした)

という流れです.

37kgになったころは,授乳→引越し作業→授乳・・・の繰り返しで,しかも食べるものもあまりなかったからかな,という感じです.

とはいえ,低体重で私が倒れてしまえば息子くんの危機なので,いま一生懸命食べています.

 

でも

 

体重計にのって体重が減っている時の<嬉しさ>をまた実感してしまいました.

同時に,増えた時の何とも言えない<悲しさ>も再発見.

 

40kgの体重が私には少なすぎることは自覚しています.

いまは産後・授乳期ということで生理がこないのは当然なのですが,

平常時にこの体重では生理はこないでしょう.

私にとって生理がくるギリギリの体重は43kgくらいのはずです.

(以前,生理停止→再開の時の体重を参考値として)

生理が来ないということは適正体重ではない,と分かっています.

 

それでも体重の増減に対する<嬉しさ>も<悲しさ>も明らかにあります.

 

 

 

産後は頻繁に体重計にのっていて,0.1kgの増減に一喜一憂するのが苦しく辛くなり,のるのを意図的にやめました.

今も頻繁にのるのはやめています.

また体重の数値に振り回されてしまうので・・・

 

 

年末年始が怖いです.

暴飲暴食は私自身の精神的にも,息子くんの授乳にも良くない.

それが歯止めになりすぎて,いつも以上に食べれなくなるのではないか.

いやいや,やはり美味しいものを目の前にして食べすぎて太ってしまうのではないか.

 

 

拒食症でも!妊娠・出産しました

私のブログを見てくださっている方がいるので,この場でご報告しておきます.

 

14歳から拒食症で2016年9月現在27歳です.

拒食症の症状はおさまりつつも,今も継続していると感じています.

 

そんな私も2016年1月に妊娠していることがわかり,

2016年8月28日に2600gの男の子を出産しました.

 

 

拒食症でも,拒食症で生理が来ない時期があったとしても,

妊娠・出産は可能です.

 

 

私は158cmで妊娠前は43kgありましたが,

妊娠初期につわりで41kg弱まで体重が減りました.

その後はつわりと,太ることの恐怖から体重を増やすことが出来ず,

42kg~43kgで体重が行き来するような妊婦生活でした.

そして出産してみると体重は38kgになりました.

正直この体重で育児をしていくのは無理だと感じ,

今現在,一生懸命赤ちゃんのために食べて食べて食べています.

 

妊娠するために(生理がちゃんとくるように)

拒食症の症状を一生懸命おさえて食べるように努力していましたが,

妊娠してから太る恐怖が増大してしまいました.

生理は非常に不規則で,かろうじて分かる周期は50日くらいあり,

「妊娠は難しいのではないか」

と自分自身思っていました.

でもちゃんと妊娠できましたし,小さめながら元気な赤ちゃんを産むことが出来ました.

 

更にうれしいことに,今は母乳育児が出来ています.

私が低体重だし,貧乳だし,母乳は出ないのではないかと思っていたけど,

たくさん出ています.

 

 

私のブログを見ている方で

拒食症ご本人,拒食症の方の御家族の方,拒食症の方のお友達

などがいらっしゃり,将来の妊娠・出産を心配されているなら,

私の事例をみて少しでも勇気づけられてほしいです.

 

 

育児の忙しさのため,ブログはなかなか更新できないのですが,

まだまだ書きたいことはあるので,今後時間を見つけて記事を追加していきます.

 

 

今後もよろしくお願いします.

これまで(7)17,18歳 拒食症と部活、学校行事

【2007年】拒食症と部活、行事など

そういえば,これまであまりハッキリとは書いていなかったけど
バドミントン部は高3の正式引退の頃まで続けました.
もちろん運動できなくなってからは,見学でしたが.

これも私のちっぽけな自尊心のためであり,将来を考えた時のイヤラシイ戦略です.

私の通っていた高校は進学校でありましたが,部活動もその他の学生活動(合唱祭や文化祭)も盛んでした.
いろいろな理由で,特に受験勉強のためという理由で,部活を途中で辞める子もいました.
でも私はそれにより少しでも白い目で見られるのが嫌だったし,
部活動をやめて受験時の内申点などに傷がつくのが嫌でした.
それに卒業後のバドミントン部の同窓会などに呼ばれないのも怖かったです.
だから辞めようとは思いませんでした.
何とかして部活は最後までやっていたことにしたかったのです.
周りから見たら,もう辞めたも同然だったかもしれませんが・・・

これは拒食症とも関係あるかもしれません.
「部活を退部して白い目で見られるの嫌」
と周りの目をとてもとても気にしていました.
「バドミントン部に所属している私」
「最後まで所属した私」
というアイデンティティも自分を守るために必要でした.
それがなくなったら,ただの勉強バカになる・・・と思っていました.
周りの目を気にし,アイデンティティを保とうとすることは,当時の私にとって大きなポイントでした.


でもそのおかげもあって,今でもバドミントン部の仲間とは交流があります.
結婚式に呼んだり呼ばれたり.お盆や年末に集まったり.
私のつらい過去をよく見知っている人たちなので,会っても心狭い思いを勝手に感じていることもありますが,
やはり部活は最後まで辞めなくてよかったと思っています.
みんな本当に良い人たちだし,つながりを保てていることは良かったと思います.


私のいた高校ですが,上にも少し書いたように,学生活動(合唱祭や文化祭)が盛んで有名でした.
合唱祭のために衣装や振り付けに凝って,猛練習をして,本番も学校を挙げてのお祭り騒ぎ!
文化祭も3年生は夏休みをつぶしてどのクラスも演劇の猛特訓をし,
1,2年生も大いに盛り上がっていました.
体育祭は球技大会でしたが,休み時間に練習をしたり,クラスの一致団結を大いに求められました.

でも私自身は温度差を感じていて,どれも魅力的に思えず,積極的に参加したいとは思えませんでした.
1年生のうちは,とりあえず周りに合わせて頑張っていました.
2,3年生になってからは特に勉強に時間を費やしたくて,他のことは極力避けたいと思っていました.
それにどんどん痩せていく中で体力が衰え,みんなの熱狂についていくことができませんでした.
日々の生活で精一杯.
運動はもちろん,歌を歌うのも,雑用をするのも,つらいの一言でした.

精神的にも,肉体的にも,在学していた校風は私に合わず,私を苦しめ続けました.
姉に憧れて選んで入った高校.
でも華の青春期を送ることは出来ませんでした.

これまで(6)17,18歳 拒食症と高校生活、大学受験

【2007年春~(17歳)】受験勉強と拒食

2007年春からは高校3年生になりました.
バドミントン部の最後の地区大会の応援くらいはいったかな・・・
あまり覚えていないのですが,もう受験勉強に没頭したかったのであまり部活にも行かなかったかも

でもその代わりに塾の勉強頑張ったり,学校で未習の内容を一生懸命自習してたかな?
とにかく忙しかった気がする


夜9時以降に食べると太るから,なるべく夕飯は早く食べたかった.
でも平日の夜に塾があると遅くなって帰宅が10時半とかになってしまう.
だから塾の人に少し事情を話して,4コマ中3コマ目までで帰って,ノートを写させてもらってた.
受験勉強も相当大事だけど,頭の中は更に太ることへの恐怖があるから,
2つの兼ね合いがなかなか難しかった.


お昼ごはんは何故かその頃は「朝」「学校で」食べてた.
早弁が早まりに早まったのと,勉強時間確保のためだったかな・・・
理由はどうあれ,拒食症の事情を話してあった先生に物理の教室を借りて,
朝7時半前くらいに登校して,物理の教室で一人,勉強しながらお弁当を食べる.
変なことをしていたなあとは今は思うけど,それが一番安心できる空間と時間だった.

申し訳ないことに,お弁当は半分は捨ててた.
持参したビニル袋にご飯の2/3,おかずの半分とか捨ててた.
そして8時半くらいに自分の教室に戻るときにゴミ箱へ.
今思うと本当に本当にもったいないことをしていた.
あんなに美味しいお弁当をどうして捨てなければならなかったのか・・・
今こそ食べたい!って感じなのに.

どれだけの量を捨てたんだろう・・・
どれだけの金額分だったんだろう・・・

本当は全部食べたかった.
美味しかったことに間違いはない.
愛情たっぷり栄養たっぷり.
ただただ太ることが怖くて,捨てるしかなかった.
持って帰れば,母に怒られ,困らせ,心配させてしまう.


今でもそうだけど,一度そういうこと(捨てるとか,少量に抑えるとか)し始めると,
続けないと怖くなってしまう.
一回だけで次は自分に許してあげる,ということがなかなかできない.
「捨てる,抑えるは,昨日だけ.今日はちゃんとしなきゃ」
って自分に言い聞かせないと,元に戻せない.

自分に言い聞かせ続けることで食べれるようになることもあるけど,
突然だったり,徐々にだったり,言い聞かせるのが辛くなって,
捨てたり抑えたりを再開してしまう.

もう何がなんだか分からなくなって,心で大泣きしながら,時には実際に泣いて,
わけのわからない気持ちが通り過ぎるのを待つしかない.


お弁当は捨てることで調節して,夕飯時には空腹になるようにしていた.


そんなことしてるから,体重は微減微増で維持されていた・・・はず
載ってないからわからない

これまで(5)17歳 拒食症、病院に通っても治らない

【2007年冬春(17歳)】病院通い
国立の精神科にしばらく通っていましたが,そこの先生が他の病院に異動なさるということで,私も違う病院に行くことになりました.

良い先生ではあったけど,この先生のもとに通えば治るものではないと薄々思っていたので,特に感慨はありませんでした.

今度は精神科の専門病院に行くことになりました.
国立の先生に紹介してもらったんだっけなーら車で30分とかバスとかで行ける所.
それまではいつも母親がついてきていたのですが,いつも一緒だと私も心休まらないので,バスで一人で行くようにしました.

はじめて行った時から,精神的な病を抱える患者さんが待合室にたくさんいて,なんだか居心地が悪かったです.
私もその中の一人で呼ばれるまで参考書に没頭して待って,診察は10分くらい.
それでお金払って,帰るだけ.

男性の先生で,特に親しみのある人ではなく,診察では近況報告を軽くするくらい.
本当に「ここに来て何の意味があるんだろう」と思ってました.
それが余計にストレスになって,以前に増して病院に行きたくなくなりました.
学校を早退してまで来る必要あるのかな・・・って.

4回目くらいの通院で,もう我慢できなくなりました.
「意味が無い」「機械的に診察通されているだけだ」「治るわけない」「もう来たくない」
と頭の中でぐるぐる考えてたら,気持ちが凄く落ち込んで.
帰りのバス停でバスが30分近く来ないことがわかり,
たまたま家にいた父に電話して,泣いて「迎えに来てほしい」と頼みました.

優しい父ですので「いまどこ?大丈夫?すぐ行くから」と言って,飛んできてくれました.
車の中で泣きながら,私が感じたことを伝えました.
父は多くは語らず,責めたりもせず
「もう行くのやめな.ママにそう言いな」と言ってくれました.

また別記事で書くかもしれませんが,父はアスペルガー症候群が入っています.
(母曰く,ですが.診察を受けたわけではないのですが.)
なので,私の気持ちを多くは理解していないのかもしれません.
でも勝手に人の気持ちを汲み取って,分かったように何かを諭されるより,
多くを語らずに隣りにいてくれることが,私は嬉しかったです.

そんなこんなで,精神科の専門病院は離脱しました.
もう病院はまっぴらだと思っていたので,次を探すことはなかったと思います.
大本命は慶應義塾大学の附属病院の専門だったと思いますが,順番待ちで1年半と言われ,やめてたと思います.


いつだったか,近くの婦人科で生理の誘発剤をもらいました.
この時点で2年半くらい生理がなかったので,母が将来を心配して連れて行ってくれました.
排卵誘発剤排卵を起こして,子宮が排卵機能を忘れないようにするためです.
超久しぶりに生理になって,ひどく重かった気がします.
「生理ないほうが楽だわ・・・」
と本当に思いました.
残念ながら,その後自然に生理がくることはなく20歳近くになるまで無月経は続きました.

これまで(4)17歳 拒高2、食症の病院通い

【2006年秋冬(17歳)】病院通い
そこから病院通いが始まりました.
まずは先出の国立の精神科へ.
女性の優しい先生で,特別嫌だとは思いませんでした.
でも,こんな風に話を聞いてもらっているだけで治りっこないよなあと思っていました.
平日の午後の診察しかなかったので,授業を毎回抜けていました.
大体,得意な英語の授業を早退していたかな・・・
どういう頻度でいっていたか正直覚えていません.
でも毎回母と駅で待ち合わせて行っていました.
それほど苦痛ではなく,むしろ行くことで運動量が増えて嬉しかったです.


学校では体育は見学,バドミントン部も見学になりました.
とても体が楽でした.
通学だけでも辛かったので,助かったーという気持ちです.
でも運動量が減る分の太ることへの恐怖はありました.


だんだんと,夕飯の時間に空腹でないことが怖くて,とにかく早く昼食をとってしまおうと,早弁をするようになりました.
どんどん前倒しになって,どういうきっかけか忘れましたが,朝に家でお弁当を食べるようになりました.
お弁当箱につめる意味はもうないのですが,食事量が目で見て分かるという意味で,私も母も安心できたのでしょう.


一番つらかったのは夕飯の時でした.
母はヘルシーなおかずを数多く作ってくれました.
その頃は,家族みんなバラバラで夕食をとっていたので,私はダイニングテーブルで一人10品近くの夕飯を食べなくてはいけませんでした.
どこかで聞いた話ですが,拒食症の人は1つのものをたくさん食べるより,複数のものを少量で食べるほうがイイと.
それで品数増やしてくれていたのかな.

母は時に目の前に座って見張り,時にキッチンから他の家族の夕飯を作りつつチラ見している感じでした.
私はゆっくりゆっくり,よく噛んで食べて,どの料理にも一口ずつ箸をつけておいて,食べきらずに終えていました.
食べ終えると,母は「分かった,いいよ」と言ってくれることもあれば
「残し過ぎじゃない?だめだよ,もっと食べなさい」と怒られることもありました.
怒られると,泣きそうになりながら一生懸命もう一口二口食べるのです.
食べて体中に血がめぐる感じがとてつもなく嫌でした.
夕飯後はいち早く自分の部屋に戻り,勉強三昧でした.
夕飯を思う存分食べられない日は,低血糖の症状を感じながら,ボーっとする頭で一生懸命に勉強しました.
自分のアイデンティティ確立のためにも,東大を目指していましたので.



こんな感じで,とりあえず国立の精神科に通いながら高3を迎えたのだったと思います.
このあたりのことは細かくは覚えていませんね....

これまで(3)17歳 高2の時、拒食症に母気づく

【2006年夏秋(17歳)】母が拒食症に気づく
夏のバドミントン部の合宿で,シャトルランのようなことをやり,過呼吸のようになりました.
体重が減って,体を動かすだけで精一杯で,もう運動はできないと薄々感じていました.


9月の第1週,母が旅先で私の腕・手が黄色いことに気づきました.
特にみかんを食べまくっているというわけでもありませんでした.
「細さ」に言及された覚えはありませんが,肌の色の変化に母は気づいたようです.


9月第2週,姉の大学の小冊子の特集で「思春期やせ症」のことが載っていて母が見せてくれました.
痩せのことはもちろん,肌が黄色っぽくなること,生理が来なくなることが書かれていたと思います.
「あなたはきっとこの病気だ,病院に行こう」と言われました.
私は「病気か…それならもう部活で運動しなくて良いんだ…この食べ物の縛りから解放されるのかもしれない…」
と感じた一方で,
「病気になれた…!みんな心配してくれるだろうか…特別な存在になれるだろうか…」
のように思っていた気がします.

中学生の頃だと思いますが,テレビ番組で拒食症のことを知り,
「食べられなくなって痩せられるんだ!イイなあ!私もこの病気になりたい!」
などと思っていました.
そんな夢が叶ってしまったんですね…w

それにこの頃の私は特に,自分のアイデンティティを探していたのだと思います.
「病気になれた…!みんな心配してくれるだろうか…特別な存在になれるだろうか…」
というのはそういうことです.
中学の頃は運動・勉学No1,生徒会役員,ピアノで学年の伴奏者,と人に抜きん出た部分が自分を形成していました.
でも高校に入って,多才な仲間に囲まれ,上記のことはもちろん,他に自分自身を主張できるものがなくなっていました.
唯一,抜きん出ている?と思えたのは,勉学の出来と,痩せていることでした.
そこに,「病気」(思春期やせ症,拒食症)という,他の周りの誰も持っていない特徴を得られるんだと感じていました.

誰でもない私を形成するものとして,「痩せ」「拒食症」が重要な要素として取り込まれました.
今だからこんな風に書けるのであって,当時は全て無意識下のことです.
だからその後「痩せ」も「拒食症」も,手放すことはなかなかできませんでした.



9月第3週,文化祭の準備のため授業がないという日を選んで,母と国立病院の精神科にいきました.
勉強が大事で大事で授業を休むなんて考えられませんでしたから.
色々と話しを聞かれて,答えて……
「思春期やせ症」と診断されたんだっけな?覚えていません.
とりあえず「こんなのが治療?これで治せるの?」という感想でした.
でも,部活や体育といった体を動かすことをやめるように,といった主旨の診断書を書いてもらった気がします.
私自身が,運動がとても辛かったからです.

この頃から,母に体重計を隠され,体重の値に踊らされないように制御されました.
時々,体重計をどこからともなく持ってきて,母だけが体重を見れるように表示板を隠され,体重測定をしました.

私は特にそれを嫌がりませんでした.
自分で毎日体重計に乗って,体重を確認するのは,実は辛かったからです.
体重の値を気にしなくて良い解放感はありがたかったです.
体重を見れない怖さももちろんありましたが.